梅酒と言われたら、どこか懐かしい気持ちになる方も多いのではないでしょうか。
いまでは瓶詰めされた市販の梅酒がどこでも手に入るようになりましたが、かつては多くの家庭で「梅酒は家で漬けるもの」というのが、ごくあたり前の風景でした。
5月下旬から6月にかけて、青梅が八百屋やスーパーに並び始めると、氷砂糖やホワイトリカーと並んで、漬け込み用の大きな瓶が特設コーナーに並ぶ。
そうした売場の景色こそ、梅酒づくりが“年中行事”として根づいていた証です。
なぜ、これほどまでに家庭で梅酒をつくる文化が広がったのか。それは、日本の「保存文化」と「医と食の知恵」、そして生活道具の進化が、梅酒づくりを支えてきたからに他なりません。
冷蔵庫がなかった時代の知恵
冷蔵庫が各家庭に普及したのは、高度経済成長期の1960〜70年代以降のこと。
それ以前、日本の暮らしにおいて「食材をどう長く保つか」は、生活そのものを支える知恵でした。
魚や野菜は塩漬け、味噌漬けに。
大根や芋は干して乾物に。
果実は甘味や酒に漬けて保存する。
梅はその代表格といえる存在でした。
強い酸味と殺菌力をもつ梅は、梅干しや梅酢、梅肉、そして梅酒へと姿を変え、保存食・薬用食として重宝されてきたのです。
そのままでは酸っぱくて渋い梅を、美味しく・長く楽しむために、手をかけて変化させる。
それは、冷蔵庫がなかった時代における「文化としての保存」だったのです。
薬としての梅酒
「梅はその日の難逃れ」
昔からそう言われるように、梅には薬効があるとされてきました。
漢方で使われる「烏梅(うばい)」は、梅の果肉を加工した胃腸薬です。
民間療法では、体を温めたり整えたりする食品としても親しまれてきました。
そこに酒が加わるとどうなるか?
焼酎やホワイトリカーに漬けた梅酒は、「美味しく、癒す」薬酒という存在になります。
寒い季節、体が冷えたとき。風邪気味で食欲がないとき。
お湯割りにして少し飲むだけで、なんとなく心も身体もほっとする。
それは、薬棚に置かれていた市販薬よりもずっとやさしく、
“台所の薬”として母や祖母が常備していた、家庭ならではの知恵だったのかもしれません。
「瓶」という発明が変えた、家庭での梅酒づくり
もうひとつ、梅酒文化の広がりを後押ししたのが「瓶」という道具の存在です。
昭和初期までは、陶器や甕(かめ)に保存するのが一般的でしたが、
戦後になると、安価で丈夫な“ガラス瓶”が広く普及するようになりました。
透明で密閉性があり、衛生的。
そして、瓶の中で少しずつ色づいていく梅と氷砂糖の様子が目に見える。
その視覚的な“美しさ”も、梅酒づくりを楽しくしてくれた理由のひとつです。
ガラス瓶は、雑菌の繁殖を防ぎ、長期間保存にも適していました。
こうした保存性・衛生性・見た目の満足感が揃うことで、
「家庭で梅酒を育てる」という営みは、より手軽に、そして身近なものになっていったのです。
台所で受け継がれた、記憶と香り
梅酒をつくる工程は決して複雑ではありませんが、ひとつひとつの手間を惜しまない丁寧な作業が求められます。
青梅を優しく洗い、竹串でヘタを取る。
瓶を消毒し、氷砂糖と交互に重ねて漬け込む。
その後は、冷暗所に置いて数ヶ月、じっと待つだけです。
この「待つ」という時間が、実はとても大切でした。
瓶の中の梅が、日を追って色を変え、氷砂糖が溶けて液体に深みが出ていく様子を眺めながら、「もうすぐかな」「あと1ヶ月かな」と心待ちにする。
季節を感じ、手間を愛でる、そんな時間の豊かさが、家庭の中に静かに根づいていました。
私自身、妻の祖母が毎年6月に漬けてくれる梅ジュースの瓶を、子どもと一緒に眺めるのが、ひとつの年中行事になっています。
手間をかけて漬けた梅ジュースを、炭酸で割って飲んだときに広がる爽やかな香りは、まさに“季節を味わう”体験です。
たしかに、今の時代は市販の梅酒やジュースの方が手軽で、美味しさも安定しています。でも、自分の手で漬けることには、味以上の意味があります。
季節の変わり目に手を動かす。素材に向き合う。待つ時間を楽しむ。そうした営みのひとつひとつが、家族の記憶として受け継がれていくのです。
私の家にもある、受け継がれる“季節の味”
私の妻の祖母は、今も毎年6月になると梅ジュースを漬けてくれます。
それを息子と一緒に瓶越しに眺めるのが、わが家の年中行事のひとつです。
氷砂糖が少しずつ溶けて、液体がほんのりと琥珀色に染まっていく。
数週間後に飲むあの炭酸割りの一杯は、ただのジュースではなく、**「季節の味そのもの」**なんですよね。
もちろん、市販の梅酒や梅ジュースは手軽で美味しいです。
でも、自分たちで漬けるからこそ味わえる喜びや記憶も、たしかにあると思います。
素材と向き合う時間。手間をかける時間。季節を待つ時間。
それらすべてが、暮らしの中に静かに刻まれている“梅の時間”なのだと感じます。